雪は吉兆。 しんしんと降り積む雪に直江が微笑む。 天と地とを繋ぎながらそのどちらにも属さぬ雪は、大地を覆い呪文を消し去り描かれた結界を曖昧にする。 幾重にも重ねられた中心部は無理でもその外縁になら気づかれずに入り込めるのだ。 己自身が立ち木になったよう、気配を消し風景の一部に溶け込んでただ待ち続けた。 公子の身で何故自らここまで動くのか、正確なところは直江自身にも解からなかった。 天宮への意趣返しの思いは確かにある。 己が領分に勝手に踏み込んだ彼らを出し抜き、彼らの秘蔵を攫って一泡吹かせるのはさぞ痛快だろう。 元々、鳳雛は魔にとっては力を高める何よりの馳走、高嶺の花であり垂涎の的なのだ。 天宮の鉄壁を誇る障壁さえなければと狙う輩は多い。 天宮を慌てさせるとともに数多の同族に一歩先んじることもまた、自尊の心をくすぐった。 けれど、それだけではなく。 自分は、純粋に、この鳳雛に興味があるのだと直江は思う。 天を治めるほどの霊力を持ちながら地に這う人の子の身体に生れついた不思議、 むしろ不遇といってもいいその境遇に。 鳳雛はこの雪に少し似ている。 彼もまた、天であり地でもありながら天でもなく地でもないもの。 ならば、この雪景色に心躍らぬはずがない。彼はきっと此処までやって来る。 そして自分も。 紛れもなく地に根を張りながら、それでも天への憧憬を断ち切れぬのだと直江は自嘲の笑みを浮かべた。 突然、ばさばさばさっと大きな音がした。 枝に積もった雪が下に落ちたらしい。 吃驚して音のする方を振り向いた時には、木立の中、もうもうとした雪煙が舞っていた。 その眺めに、子どもは息を呑んだ。 折から雪は小止みになり薄日が射している。その光に反射して、 雪の落ちたあたりの空間がダイアモンドを散らしたみたいに輝いていた。 引き寄せられるように足を踏み出す。 一歩。さらにもう一歩。 あのキラキラする光をもっと間近で眺めたくて。 林の際まで近づいて、子どもは少し躊躇った。ねえやの言葉を思い出したのだ。 庭の外には出てはいけないと言われた。けれど、林の中だって小道はあるし庭の一部みたいなものだ。 だから、約束を破るわけじゃない。 そう自分に納得させる。 気がつけば、毛糸で編んだ手袋も、もう湿った雪で濡れていた。散歩するにはもう要らない。 ここに置いておけば大丈夫。忘れないし目印になるよ。 子どもは一人頷いて、手頃な枝に手袋を引っ掛け、雪の積もった林の中へと分け入った。 林はシンと静まり返っている。 訳もなく心細くなって何度か後ろを振り返った。大丈夫。 木々を透かして、ねえやの消えた戸口もついさっきまで遊んでいた庭もまだちゃんと見える。 だから、もう少しだけ、奥に入ってもきっと平気。 そう自分に言い聞かせて、雪の小道を踏みしめる。 何度も歩いて見慣れたはずの林の風景が、今はすっかり違って見える。 濡れて黒ずんだ樹肌と張りついた雪の白さと。 モノトーンで統一された物言わぬ木々の中で、鮮やかな色彩をまとって歩き回る自分だけがなんだか場違いだ。 やっぱり庭に戻ろうか。 そう思ったとき、前方に佇む人影に気がついた。 黒いコートを着た背の高い男のひと。知らない人だ。どうしよう? 身の回りの世話をしてくれるのは女の人ばかりだったし、そもそも、子どもの暮らす館には滅多にお客はこないのだ。 こんな時にはどうしたらいいか、習った作法では役に立たない。 立ちすくんだ子どもの困惑を見て取って、その人はにっこりと笑った。 男の人なのに、とても綺麗だと思った。 「こんにちは。はじめまして。高耶さん……ですよね?」 呼びかけてくるその声も、たいそう自然で心地よかった。 この人は悪い人じゃない。 そんな気がして、子どもはこくんと頷いた。 「私は直江と言います」 「なお…え?」 たどたどしく繰り返すのを聞いて、男の人はまたにっこり笑った。名前を呼んでもらえたのがとても嬉しいと言わんばかりに。 「そう。雪が降ってきたでしょう?だから来てみたんです」 「雪?」 「ええ」 優美な仕草で直江と名のった男の人は空を見上げた。謎掛けのような言葉を不思議に思う間もなく子どももつられて空を見上げる。 いったん止みかけた雪がまたちらちらと銀灰の空から落ちていた。 そのひとひらを掌で受け止める。 自分の時は見る間に溶けた。 けれど、直江の掌に留まった雪のかけらはいつまでも消えずに淡い光を放っている。 「すごーい!」 子どもは眼を丸くして数歩近づき、また立ち止まる。 そんな子どもに向って、直江は雪を浮かべた手を差し出した。 もっと傍においで。もっと近くで見てご覧と、誘うように。 キラキラ輝く結晶と穏やかな笑みとを交互に見遣って、 やがて子どもは意を決したように、最後の距離を詰めた。 |