物心がついたときから、天涯孤独の自分の居場所は此処しかないのだと思っていた。 その居場所が高耶の傍らへと意味合いが変わってからも、 やはりこの屋敷から離れることはないのだろうと漠然と考えていた。 直江にとって、それほどにこの屋敷の花々と高耶の存在は不可分のものだったのだ。 だから、ある夏の日、唐突に高耶が山行へ行くと言い出したときにはひどく驚いた。 「……山、ですか」 「ああ、この時期の山の気は格別だからな。久しぶりに行きたくなった。おまえもきっと気に入るぞ」 言うなり、すたすたと屋敷の奥へと向かいだすから、慌てて後を追った。 奥廊下の突き当たり、納戸であるはずの引き戸を開けて、高耶が直江を振り返る。 「遅れるなよ?」 と、一言だけ言い置いてすっと中へ姿を消した。 尋ねたいことは山ほどあったが思い煩う暇はない。直江もすぐに従った。 密度の濃い闇が全身を押し包んだ。 自分の手指の在り処さえ解らぬようなあやな暗闇。 そこに高耶の姿だけがぼうっと白く浮かんで見える。 まとわりつく泥水のような闇をかき分けて、彼の後をついていく。 時折、なにかの気配を感じた。 それはとりわけ黒く蟠るモノであったり、生臭い微風であったり、耳には聞こえぬ囁きであったり。 そのどれもが直江の存在に驚き、関心を示していた。 …人ダ…人ガイルゾ…… 喰イタイ…喰ライタイ……喰ラッテシマエ…… 頭の中に直接、声が飛び込んでくる。同時に大気を切り裂く衝撃や首筋に吹きかけられる血腥い息。 闇に紛れて、自分のすぐ傍に何か凶悪なモノが蠢いている。 不思議には慣れている直江にとっても、背筋の凍る思いの連続だった。 高耶の姿だけを捉え、必死で平静を保ちながら、永遠とも思える距離を歩く。 ふいに重石と目隠しがはずされたような感覚で視界が拓けた。 磨きこまれた長い廊下が目に飛び込んできた。 人界に戻ったのだ―――思わずその場にへたり込んでしまった直江だった。 「……肝が縮みました」 何度かの深呼吸の後、ようやく直江は言葉を発する。 「そうか?」 「異界を通る、と、一言、おっしゃってくだされば、それなりの覚悟をいたしましたのに」 恨みがましい口調の直江に、高耶は平然としたものだ。 「あんなのはただの雑魚だ。こけおどしで我を忘れておまえがオレから離れてしまえば、 脚の一本にでもありつけるかとちょっかい掛けてきたんだろうが、 あいにく、オレはおまえが動じないことを知っていたからな。……それと、直江」 自らも屈みこんで、ぽんと直江の肩に手を掛ける。 「ここの連中の方がよっぽど手ごわいぞ。気をつけろ」 笑いを含んだ耳打ちをして、それから高耶は誰かに聞かせでもするように急に声を張り上げた。 「……半日ほど滝に打たれてくる。おまえは此処で留守番だ。いいか、向こうのようにあれこれ働かなくていい。 オレの代りなったつもりでゆったり寛いでいてくれ。いいな。夜には戻る」 そして高耶は再び姿を消した。 目の前には、何の変哲もない閉ざされた板戸。 自分を一度此処へ送り届けて、また別の場所に赴くために異界の道へと戻ったのだと理解するまで、直江は凝然としてその木目を眺めていた。 |